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大晦日、「年越しそば」を食べながら思ったこと。

日本人は麺類を好んで良く食べます。
私もその一人です。
蕎麦、うどん、ラーメンなどの中華めん、パスタに夏には そうめんなど。
この中でも、特に蕎麦は日本人にとってあまりにも身近な食文化だと思います。
その証拠に麺類の中で「日本」がつくのは蕎麦だけです。

今では蕎麦を食べるのは当たり前で、蕎麦屋や俗に言う立ち食いそば店も多く、コンビニエンスストアでも、必ず蕎麦が店頭に並んでいます。
この蕎麦の歴史は、いつから日本で食べられるようになったか、と思い少し調べてみました。

書物によると、
日本の蕎麦は元をたどると大陸伝来してきた食べ物だそうです。
そもそもの原産地は現在でいう中国雲南省からヒマラヤあたりであったという説があるそうです。
日本でソバの栽培が始まったのは古くまでさかのぼれば縄文時代にたどり着くそうです。
高知県内で9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかっているようです。
9000年も前からソバが栽培させていたんです。

「蕎麦」という言葉が初めて歴史的文献に記されたのは、797年の史記「続日本紀」であるそうです。
奈良時代前期の女帝 元正天皇の書の中に次のような「蕎麦」の記述があります。

「今年の夏は雨がなく、田からとれるものがみのらず、よろしく天下の国司をして、百姓(おおみたから)を勧課し、晩禾(ばんか)、蕎麦及び小麦を植えしめ、たくわえおき、もって救荒に備えしむべし」

現在は「そば」といえば、細長い麺の食べ物を思い浮かべますが、少なくとも16世紀頃までは「そば」に今のような麺としての形を見出すことは出来なかったそうです。
16世頃までは「そば」は麺ではなかったようです。

それでは、いつごろから「そば」は麺になったのでしょうか。
江戸時代中期の俳人だった森川許六による俳文集「風俗文選」(1706年刊)で「そば切り」の発祥の地が次のように伝えられていたようです。

「蕎麦切りといっぱ、もと信濃国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」

これを見ると1706年には「普く国々」に広まっていたようです。
そして、今、私たちが慣れ親しんでる「蕎麦屋」が開店したのも江戸時代でした。

江戸の麻布永坂町で、信州(長野県)の行商人の右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げたのが始まりなようです。
同じ時期に、雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂では「藪そば」が誕生したそうです。
これが今なお受け継がれる「更科」「藪」の蕎麦の始まりです。

更科そばや藪そばを供すそば屋の誕生以来、大江戸中にそば屋は広がっていき、1860(万延元)年には江戸府内のそば屋は3763店を数えたといわれております。

この頃から蕎麦は縁起物にも変わっていったようです。
大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が庶民に定着したのは江戸時代中期と言われています。
もともと金銀細工師が作業中に飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使い集めていたことから、縁起を担いで掛け金の回収前に蕎麦を食べるようになったと言われているようです。
その、げん担ぎが大晦日にそばを食べるという習慣として広まったという説です。
また、「引っ越しそば」も引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めて、そばを贈る習慣も江戸時代に起きたと言われています。

江戸時代になって、麺となったそばは江戸の人々に愛され、また、縁起物になって多く広まっていったのでしょう。
(参考:食の研究所)

今では普通に食べられる蕎麦ですが、日本の歴史において9000年もの前から実在していたとは想像もしていませんでした。
9000年という莫大な年月の中で、普通に麺として蕎麦が食べられるようになったのは、まだ450年余りです。
近年でも食文化は進化していきますが、食文化含めて日本の文化は何時までも継承していってほしいものです。

三浦 祐士

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