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★ 積ん読?読ん読「ほたほたと」

60年代ミラノにて、「須賀敦子が選んだ日本の名作として」という本を手に取った。

主旨としては、須賀敦子が日本の紹介すべき短編を自ら選集、イタリア語訳して、60年代に「日本現代文学選」として出版したものの中から、13編を選りすぐったもの。とはいえ、私たちは日本語で読むので、須賀敦子の当時のイタリア人に向けた注釈をつけて、それぞれの原文を集めたもの。CDで言うならセンスの良いオムニバスみたいな感じすね。太宰、三島、川端、鴎外、横光、などなど。学生の時に触れた(マーキングくらい)ような、自分からはほぼ手を出さない感じのものが並びます。

この中に樋口一葉の「十三夜」があって、こんな古い文体のもの、もう、ちょっと今の歳から手を出すのはきついと思っていて、まあとばしてもいいし、短いのならいけるかなと。

読みながら、源氏物語とか平家物語が古典で、その相対としてなら、これが現代文学といえるかも知れないけれど、今=現代なら、現代とはかけ離れたものだよ、、と。「モダンジャズ」もそうだけど、言葉の元々の意味からしたら、違うだろ!と思いつつ、そのままそれで行きましょうと、何かに飼い慣らされている感じをいだくほど、この「現代」という言葉によく違和感を感じます。

まあ、それはともかく樋口一葉です。結構良いわけです。どこで途切れるのか、今誰が主語なのかとか、最初よくわからないけれど、途中から慣れるのです。

鷗外の「高瀬川」とかより、文体は古いけど、内容は新しいというか、新しくもないけど、実感ある〜みたいな感じです。

そういう古風な文体を読んで楽しんでる自分に酔ってるかもしれませんが、酔えるなら酒でも文章でも大歓迎なので、まあそれはどうでもいいのですが、なんかリズムなのか、言葉なのか、いいんですよね。

その中にこんな言葉が。
思いがけず帰ってきた娘に「母親はほたほたとして茶を進めながら」
ほたほたがわからず調べたら「機嫌よく、いかにもうれしそうなさま、また、にこにこしながら愛敬をふりまくさま」。

なんか、感じが出てていーなー!使いたいなー!と思うけれど、なかなか使えないわけです。もう、他の言葉が新しすぎて似合わない。80年代の服装に60年代の服を合わせちゃう感じでしょうか。着物に靴を履くほどじゃないけれど、なんか合わないものを使っている感じになる気がします。

ああ、こうして、こんな美しくて、一言でその情景を表す言葉は消えていくのかなぁ、、などと思ったりして、そうした意味でも、この気楽な感じの文庫本に、すごく意味深いものを感じ、まだこの本の半ばですが書いちゃいました。

それから序文のイタリア人の日本文学者の文章もとてもいいです。須賀敦子さんのイタリア語訳が、それぞれの文体の雰囲気を伝えていたという、その情緒の発信者と受信者と両方いるということはやはり素晴らしいな。と思います。

うちの母は、時としてほたほたとしてる感じなので、上のような話をしたくて、樋口一葉のねといったら、人の話は聞かずに、「すごくお金に困った人だったのに5千円札になっちゃって」と、何かを嘆いていました。

★「次はあんじょうお願いしときます」

田辺聖子のインタビューをテレビで見ました。失礼ながら、とても個性的な顔だと思っておりましたが、すごくチャーミングな人で、本読んでみよーと思いました。

大阪弁で小説を書いてるのですね。大阪弁の魅力をインタビューで話していたのが印象的でした。大阪は商売の町だから、交渉が成立しなかったときに、これきりの縁みたいにしないで「次はあんじょうお願いしときますよ」みたいに言う。(今への諦めと次への期待?)「また今度ね」「また次ね」みたいに次に続けられることは、人間の文化だと思う。そんなことを話していました。(覚えがきなのでもっと得心する言葉だったけれど)

縁だとか絆とかの言葉よりよっぽど深く「そうだな」と思える言葉でした。

★ 今週日曜日不在

半年ぶりのミュージックバードの寺島ラジオに参加してまいります。

こんな好き勝手なことに書いていていいなら、いつまでも書いていられるけれど、月に二回くらいにとどめておこう。と自戒をこめて、、

(竹田)

青山の小民藝もり田でいただいた田の神さま。(食いっぱぐれしなさそうだから)ほたほたと、とはこんな感じにも思います。

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