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「マーラー」と言われると、正直鯱鉾張る自分が居ることは否めません。

その中において、1番、3番、5番、6番とかなら生で聴いたで誤魔化せるけど、更に3番と突っ込まれると、いや、コンサート行ったものの、実は船漕いでた、、なんてこれまで恥ずかしくて言えませんでした。

ところが、この度、某出版社のウェブで「東京・春・音楽祭2022」で、オンラインコンサートを聴きましょうという企画記事にひょんなことから参加することになり、よりによってマーラー交響曲の3番。

これは困った。週末の店を留守にして企画に参加するには、それなりに音楽について語れるべきかと、企画内容を聞いてからマーラー3番漬けにしていたのでしたが、聞けば聞くほど私とは遠い存在なのではないかと、不安ばかりが先立ちます。

それはそうとの本日当日。説明を聞けば、IIJをバックにしたこの春の音楽祭は、オンラインコンサートといえども、配信は一回こっきり。見逃し配信などありません。

それはある意味新しい体験で、その時間にしか聴けない唯一性があるものの、この会に集まった6人で聴くというのは、押し黙って100分の演奏を聞くコンサートとはまた別の空間になる。非常に内輪的で、時々感想などを言ったり、途中ボリューム落として、曲について語りあったりもする。コンサートではあり得ない、けれど映像ディスクや見逃し配信を見るのよりは時間的束縛のもとの緊張感がある、、という非常に面白い体験でした。

そうなってくると、とても自由な感想を発言することができて、ひとたびマーラー3番への苦手意識を口にし、それはそうだよねとの肯定にも後押しされ、途端に心が軽くなり、自由に耳を傾けられるようになりました。

マーラーの、あちこち景色が変わりすぎの目まぐるしさを、そういうものとして受け入れたら、その中にはうっとりするような旋律が多々あり、その美しさと、コロコロ変わる景色は、どこかで人間らしさがあって、この人のことをもっと知りたくなりました。

3まわり近く年上のブルックナーとの交流があったと言いますが、ブルックナーの音楽は外に向かって広大な景色を眺める感じだけれど、マーラーの音楽は内面に向かっている、しかしそれがちまちましているわけではない、そんな感じは現代人が常に直面している抑圧と一条の光を感じさせて、現代人にマーラーの音楽が響かないわけがないような気さえしました。

この演奏会の後は、映像から離れ、音との対峙。マーラーとは対局に感じられる、ヘンデルやモーツァルトを聴いたり、もう一度マーラーを聴いたり。。

豊かな音楽散歩の1日でした。この様子はいずれ某雑誌社のウェブページで、記事になる予定。

お楽しみに!

(竹田)

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