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今朝、店のPIEGA COAX311で、モーツァルトのフィガロの結婚、第一幕の伯爵、バジーリオ、スザンナの3重唱に、ウットリしていました。

大した内容ではないのです。好きの嫌いのという話でもないし。何か人生の本質的な詩というわけでもない。なのにこんな美しい三重唱。

ふと、吉田秀和によって書かれたモーツァルトの「後宮からの誘拐」についての一節を思い出しました。

第二ヴァイオリンのふしは第一ヴァイオリンのそれにぴったりくっついているようでいて少し違う。-中略-それに単純、単調な点では、この上もないくらいのものだが、それでも、ひとつの個性をもった流れになっているのである。それは、第二ヴァイオリンの下のチェロやコントラバスが、主として、いつも同じ音をくり返し連続的に鳴らしているだけなのとは断然違う性格の走句なのだ。-中略-単純だけれど、一度に複数の何かが起こっている音楽。」(吉田秀和著「モーツァルトをきく」P15)

この三重唱でも、スザンナとバジリオは同じセリフを歌うところが割とありますが、重唱しながら、同じようでいて違う。それは、そのままそれぞれの思惑の違いに繋がります。

すごい、一石二鳥。重ねて歌うことで美しくて、しかも同じ言葉に違う感情を載せることで、ドラマに奥行きが出ます。

どれだけ天才なのと、嘆息します。

それで想像力を働かせて、モーツァルトという人に想いを馳せてみます。吉田秀和の言葉にある「単純だけれど、一度に複数の何かが起こっている」音楽。

子供のころから宮廷に出入りして、人前で演奏してきた、つまり大人に囲まれていたことや、旅の人であったことに通じるのではないかと思ったりするのです。

大人の中で育った子供って、大人が思う以上に大人の振る舞いを見て、知らぬうちに洞察力の芽が植え込まれているのではと思ったり。加えて旅先で常に初めて見るもの、初めて会う人、新しい情報にどんどん対応する。観察眼や情景描写が身につくのではないかと思うのです。

だから、モーツァルトのオペラって、なんか内容くだらないんだけれど、その馬鹿馬鹿しさに活き活きしたものを感じたりするんじゃないか。

更に、馬車で移動する旅程では、きっと、道を行き交う人、動物、馬車、鐘の音、様々な音を見聞きしたでしょう。モーツァルトは、きっと森や林など自然に触れるより、街が雑踏が、人間が好きだったんじゃないか、そんなことを空想しながら、そんなに知りたいなら「モーツァルトの手紙」とか、残された確かなものを読めば、と自分に言い聞かせつつ、音楽から勝手に空想するのが今は楽しい。

そのうち読みます。

(竹田)

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