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最近、エアコンをつけたままでもなんだか寝つきが悪く、積んどくからの読ん読が進みます。
先日手にしたのは「白洲正子自伝」

戦前から戦後、現代にかけて、お家柄的にも多分ご本人の性格的にも、特別な経験が多いこの方。自分の眼を持っている人なので、ありきたりの一般をなぞったようなものではない、鋭くも親しみ深い様々な随筆は興味深く、感銘を受けることが多々あります。

手にしてページを進めるうちにちょっと笑ってしまいました。
いつもの端切れのよさがない・・。
芸術新潮の連載で、嫌々始めたようにも冒頭にありましたが、たぶん自分のことを書くこと自体が、この方の好みではないのでしょう。

自然、書いているうちにきっと思い出される数々のことがあるのでしょうが、途中で自制するように「書いても面白いものではないので省く」とか「つまらないのでやめておく」と、切り上げることしばしば。

それでも、やはり当時のこの方の交友、その中で感じたり見たりしたことを読むのは、文化や歴史を含めた日本を読むのと同じで、もっとたくさんお話聞きたかったと思うばかり。

お嬢さんの牧山桂子さんの「次郎と正子」で、傑作で痛快で粋な白洲家に触れることができますが、やはりその時代を生きた人、ご本人の話はまた違った肌合いを持つものだと感じました。

最後の章へきて、やっと荷が降りたとほっとされたのか、読んでいてなんとも言えないあついものがこみ上げてきた。

以下引用します。

===

毎日さまざまな人々と付合い、飲んだり遊んだりして忙しい。夢の中まで亡くなった先輩たちや友達と旧交を暖めている。次第にこの世とあの世の距離が近づき、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、住所不定である。わたしの時間も、空間も、イザナギ・イザナミの時代と少しも変わってはいないのである、

中略

西国巡礼によって、私は開眼したようなことを書いたが、開眼なんてことな一回こっきりのものではなく、一生くり返しているうちに、ほんとうのものが見えてくるのではあるまいか。そして、廻り廻ったあげくのはては、そんなものはない。ともいえるのである。「悟り悟りては未悟に同じ」と昔の人はいった。

「白洲正子自伝」白洲正子著(p.273-274)新潮社  より引用

、、、、

人との付き合いも、ものとの付き合いも、自分や相手の変化によって変わるもの。

ものなら相手が変わらない。だから自分の変化によって付き合い方が変わる。

でも相手が人ならもっと変化は著しい。それにオーディオも意外と著しく変わる。

変わらないものと変化するもの、自分の中に確かで柔軟な指標を育てたいものである、、、。

なんてことを、白洲さんにしては辿々しい自伝を拝読しながら思った次第。

(竹田)

 

 

 

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