「比較」という言葉がそもそもそんなに好きじゃない。
例えば同じメーカーの上位モデルと弟機との比較ならともかく、全く違う想いのもとに作られた異なるもので、それぞれ得意不得意があるのは当然で、SMAPの「世界に一つだけの花」じゃないけど、色々あるから世の中面白いのだと思う。
オーディオは高価なものだし、そんなにいくつも持てるものではないし、オンリーワンを探すためには「比較」がどうしても必要なことは否めません。
しかし、ここで重大なことを言ってしまいますが、オーディオには残念ながらオンリーワンはないのです。
世の中の不条理のようですが、ごめんなさい、無理です。
だって人はみんなわがままなんだもの。
こんな気分の時とあんな気分の時とか、こんな音楽とあんな音楽とか、とかとか。
だからシステム選びの時は、オンリーワンを求めては、はっきり言ってダメです。
・・・
ちょっと前置きが長かったのですが、先週末の「Tannoy オートグラフを聴く」のイベントの後、
この月曜火曜は久々に少しゆっくりと自宅でオーディオと向かい合っていました。
五味康祐氏が、自身の葬式ではヨッフムかクレンペラーの「バッハ マタイ受難曲」をかけて・・と書かれていたことに因んで、オートグラフでクレンペラーの「マタイ」の二部の山場を聴いたのですが、イベントでお話をしてくださった黒崎政男先生は、「うーん、私はバッハはやはりリヒターが好きなんだなぁ」と・・・その日はマタイではなく、リヒター指揮のカンタータ4番「キリストは死のきずなに着きたまえり」をかけたりなど致しました。
でも、普段リヒター指揮のバッハ、 カンタータ140番「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」を、ポップスのごとく・・・つまり気持ちよく聴いている身としては、イベントの時のその流れは気になるわけです。
マタイ受難曲など、店でリクエストを受けてかける以外に、自ら率先してかけることなど皆無。
それこそ、大叔母の大往生の告別式で生前の本人のリクエストの元DJをしてかけたくらい。
・・ということで、久々に山野楽器でCDを買いました。
3枚組6,000円。高っ!
そりゃそうでした。
・・が、音楽配信で知らないうちに月額の配信料をカードで引き落とされていたり、TSUTAYAで借りたり、Amazonマーケットプレイスで中古を買ったりしていたので、しばらくぶりの「払った」感を味わいました。
レコードにはそんなこと思わないのに、CDは高いと思ってしまうなぁ。
買ってきたCDはリッピングして、ライナーノートに目を通しながら聞きます。
なんとなく、リヒター盤だけ買うのも悪いような気がして、クレンペラー盤も買ってみました。
(ヨッフム盤は残念ながら店頭になかった)
いずれも6,000円だったから、かける2で中々な出費です。
でも「マタイ受難曲」は、それらい授業料払わないと自分のものにならないような気がして、おまじないというか、自分への暗示というか宣言みたいなものですね。
こういうところ、変に真面目なA型の気質で、普通は必要ないことだと思います。
それで、まぁ、嫌いなんですけれども、「比較」・・してみたのです。
それで聴いていたら色々面白くて、
平たく言うと、リヒターの方が切れ味が良く、クレンペラーの方がゆったり朗々と鳴るのです。
ものすごく勝手な想像をしてみれば、五味先生と黒崎先生の生きる時代の違いみたいにも始めは思ったりしましたが、黒崎先生はそれこそ学生の頃から・・70年代前後からリヒターのバッハを聴いているわけですし、一概には言えません。
大体において、リヒターの方が録音されたのが早くて58年、クレンペラー盤は61年。
そしてさらに聴いていくと、こんな印象を持ちました。
絵でいうならばリヒター盤の方はフラ・アンジェリコの(初期ルネサンス)、クレンペラー盤はダ・ヴィンチの「受胎告知」みたいな感じ。
(上がアンジェリコ、下がダ・ヴィンチ)
つまり、時代性もあると思いますが、この2つをあえて比べるならば、アンジェリコの方が、情報の少なさ故に神への精神性が感じられ、ダヴィンチの方は「絵を描く」という行為が既に自我として芽生えていて、しかしダ・ヴィンチの天才的感性故に、描くことへの客観性がある。なので名画なのですが、アンジェリコと並べてしまうとどこか説明的で、ふとすると冗長的にさえ感じるのです。
脱線します。
8代目の坂東三津五郎と安藤鶴夫の対談「芸のこころ」(三月書房)で、「新聞なんか読むから芸がダメになる」というようなことを書いていた件があります。
さらにその他に「役者は芸術家になっちゃダメだ、歌舞伎役者は役者になれ、芸術は見る方が感じるんだ」という言葉が出てきます。
これは、すごく極端な例で、ダ・ヴィンチにもリヒターにもクレンペラーにも当てはまりませんが、このことは様々なシーンでよく思います。
オーディオの販売員にもこの話は当てはまるかもしれない。
またそのうちこれについては書きたいと思います。
より一層ピュア・純粋なもので、一つの頂点を極めたものは、得がたい魅力があって、それには見方によれば情報量が敵わない時もあると思うのです。しかし、いずれも体験できる今だからそういうことを思うのであって、それぞれに素晴らしく、優劣などつけられません。(ましてやクレンペラーとリヒター、ダヴィンチとアンジェリコなど、比較すること自体間違っていると思えてきました。)
さて、白状すると、嫌いと言っておきながら、、、こんなこともしてみました。
悪いことに自宅にはJBL アクエリアス(70年代のスピーカー、上向についた20cmフルレンジのLE8TとツイーターLE20の2ウェイ)と、Tannoy コーナーカンタベリー(30cm同軸2ウェイ・モニターレッド)があり、更に実家には60年代中頃の40cmウーファーが下向きについた3ウェイのEMPIRE 9000Mがあります。
(オーディオを生業にしているのですから贅沢はお許しください。)
・・で、流れからするともうお分かりだと思いますが、大嫌いな「比較試聴」を一人こっそりしていたわけです。
まぁ、EMPIREとJBLは予算の関係上、アンプには力をかけられていないので、そこは差し引いたとして、これまた面白かった・・。
アメリカ(JBL、EMPIRE)とイギリス(TANNOY)の違いとか、ウーファーの大きさによるとかありますが、ものすごく雑に大雑把にいうと・・・
例えばJBLは、歌のプロが歌っている感じ。
EMPIREは、その歌い手に少し年季が入っている感じ。でもちょっと独自性というか、独自に神への祈りを積み上げていっている感じ。
TANNOYは、歌のプロではなくて、神に仕えているもののプロ、要は信仰を持っていてそれを職業にしている人が歌う感じ。
そんな感じの違いでした。
これらはリヒター盤で聴いての感想。
そんなこんなで、なんとなく、たくさん深呼吸した休日でした。
天気も良かったし・・。(インドアだったけど)
オーディオって、本当に面白いですね。
では、また明日をお楽しみに!(淀川さん風に!)