上野、都美術館で開催中のバルテュス展。
また、語彙の少ないご紹介で恐縮ですが、素晴らしかったです。本当に。
バルテュスって誰?
という方は、このちょっと扇情的にも見えるポスターには見覚えありませんか?
私自身、あまりよく知らずに、「え。なんかな」と敬遠していましたが、周りが口を揃えて「いい」と言うので行ってみることにしました。
もしかすると、バルテュスの絵ほど、実物と印刷物の印象が違う絵はないかもしれない。
絵の前に立った時に、このポスターの副題通り、「誤解していた」と感じました。
ポスターで見ていた時は、「エロス」とか「グロテスク」とかそういった絵を描く人かと思っていましたが、実際は全然違う。
時間の流れの中から「一瞬」を抜き取って、それを「永遠」という形にとどめている。
静謐さが漂いながらも、「永遠」の「一瞬」が静かに息衝いている。
そんな絵でした。
後で知りましたが、そう見えてしまうのは案外独りよがりでないかもしれません。
バルテュスが誤解されていたのは、こうした絵を描くとともにウラジミール・ナボコフの有名な小説「ロリータ」の表紙を飾ったことがあるからでもあったのですが、バルテュス自身が描きたかったのは、性的な意味ではなく、少女が大人になる過程の一瞬の光を捉えたかったようです。世阿弥の「風姿花伝」にある「時分の花」と近いでしょうか。(風姿花伝は能の稽古におけることで少年のことをさしているので、ちょっと雰囲気異なりますが)
そういう年頃の、「昨日にはなく、明日には通り過ぎてしまっているかもしれない」何か。
体と精神がアンバランスとバランスを繰り返しながら育ってゆくその中で、少なくもなく多くもない、フェイズがピッタリあったその一瞬。
バルテュスはそういうのを描いていたんじゃないかと思います。
このほか、景色や光景の中で「光」を印象的に捉えた作品も多く紹介されていました。
春に京都で等伯の襖絵を見ました。
自然光の中、時間で光の角度が動くのとともに、絵の印象が変わっていくのを目の当たりにしました。
絵の側でスタンスが変わることなく、しかし時間を受け入れながら印象が変わりゆくのは、絵の持っている器が大きいと言うか、懐の深さを感じました。
バルテュスの絵には、反対に絵の中に光の動きを感じます。
絵はそこにしかなく、動くわけがないのに、光を捉えたバルテュスの絵は、絵の側から変化を見せてくる。そんな雰囲気なのです。
しかし、向かい合っている時間は、それはそれは静かなものでした。
こんな文章、どんなに書いても何一つ伝えられない。
それくらい、「見たほうがいい!」バルテュス展でした。