人と争うことが好きではないし、怒るより怒られることのほうが余程多くて、人を怒ったり叱ったりすることにはいつまでも慣れません。今の環境ではその必要もないし、、。
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先日から、宮本輝の「流転の海」を読み直しています。読み直すと言ったって、ほとんど覚えがなくて、学生時代に果たして理解ができたのかと首を傾げています。
「流転の海」は、作者・宮本輝の自伝とも言える長編小説で、1982年、作者が30代後半から書き始めて、9冊のシリーズとして出版され、数年前に完結したものです。私は3冊目くらいで読むのをやめてしまっていたのですが、さっぱり覚えていないところを見ると、当時ほぼほぼ理解できていなかったのだろうと思います。
まだ2冊目を読了したばかり。作者のお父さんをモデルにした、今のところの主人公である(父と子の物語だから、そのうち子供の方に移っていくのだろうと思うのだけれど)松坂熊吾という人間と、数日付き合って、それはそれは色んなことを思うのです。
粗野と細やかさの両方を持った大人物で、感情的で冷静で、物事の見極めや引き際に独特の感性があって、感情と計算とどっちもが働くけれど、最後は損得ではない人。舞台は戦後間もない大阪の街(第二部は愛媛の南宇和)で、彼を取り巻くさまざまな人間模様が展開されるのですが、その折々の熊吾の感情の動きに、ものすごく惹かれるのです。
小説がとても多角的で、パッとまとめられないのですが、一つのポイントとして「怒る」ということを、すごく考えます。
この人物は、よく怒る。どちらかと言うと「ブチ切れる」のですが、それによって人間模様も波紋の形が変わるように変わっていきます。
ただし、熊吾の怒りは、読んでいる側からすると一貫していて、ただの八つ当たり(奥さんには八つ当たる)ではない。ただ、その怒り方によっては、相手には受け入れられないこともあり、そんな小さな綻びから、人間関係の崩れが出てくる。
それでもこの人は怒る。衝動的にも感情的にも怒る。衝動も感情も、それまでの流れを汲んでいるから、本当は「衝動的に怒る」という言葉は成り立たないのかもしれません。
怒って、失うものは多い。けど怒る。怒らずにはいられないのでしょう。性格上。
怒られた人たちは、熊吾の人生から消えていきます。それは怒り方が悪かったのか、必要のない人たちだったのか。
その人のために怒ることもあれば、別の誰かのために怒ることもある。
私は、争い事もけんかも苦手だけど、大切な存在のためには時に怒ることも必要だと、年々ひしひしと思います。上手な怒り方などないだろうけれど、相手に、もしくは誰かにきちんと届く怒りって、どんなふうにしたら良いんだろうな、と、この主人公の人生をなぞりながら、ここのところそんなことばかり思います。
(竹田)