「Catcher in the Rye」(ライ麦畑でつかまえて)で著名なアメリカの作家
J.D.サリンジャーが、先日1月27日に91歳の生涯を終えました。
このニュースを聞いて「まだ生きていたんだ」と驚く気持ちと、うっすらと
センチメンタルになる気持ちと妙な気持ちにりました。
私は、大学で英米文学を専攻して、サリンジャーの短編「ナインストーリーズ」を始め、「フラニーとゾーイ」などグラース家にまつわる話を卒論で取り上げたので、「そうか・・・」と一時学生時代に思いを馳せました。
もはや何を書いたか覚えが無いけれど。
サリンジャーは変わり者だったという話をよく聞きます。
40年以上新しい作品は発表せず、隠居生活を送っていたということだけがその理由ではなく、様々な要因があるのでしょう。
うろ覚えですが、卒論と就職活動に目を回していた当時(10数年前)既に隠居生活を送って長いサリンジャーの話題が急に持ち上がったこともありました。
一時期一緒に暮らしていた若い女性がアメリカの何かの雑誌のインタビューを受け、激昂したサリンジャーが裁判に出るかどうか・・・とかなんとか。
ゼミ仲間と、ずいぶんタイムリーな話題だと雑誌を回し読みしましたが、その後どうなったかはそういえば知らずじまい。
ライ麦を映画化したいという申し出を断ったり、また、今回ネットサーフィンをして見つけたのですが、なんと昨年、スウェーデン出版より予定されていた「60年後 ライ麦畑を通り抜け」(J.D.カリフォルニア著書)に対して出版差し止めの裁判を起こしていた模様。
サリンジャーは「ライ麦」という世界の門番になったんだな、と感じました。
サリンジャーという作家と、彼の作品とはずいぶんかけ離れた存在になってしまったような気がします。
小説が独り歩きしている感じ。
芸術作品て、小説でも絵画でも音楽でも、そういうものなんだろうか・・・。
音楽は、そうは言い切れない。でも、クラシックでいう作曲家が小説で言う作家ならそうとも言うかもしれない。
でも、演奏者あっての音楽だから、小説の作家対読み手とは別物ですね。
絵画は、小説に比べたら抽象的なものに思えるし、それぞれとらえ方なのでしょうけれど。
「ライ麦」は、書いた当時の年齢から本人は年取っていくわけだから、そう感じるのかもしれません。
特に子どもから大人になる一番微妙な年齢の青年に1人称で語らせているから余計に。
読み手も年取った今、ライ麦はどんな色彩を放つのかしら。
ナインストーリーズのシーモアやフラニーのつかみどころのない言葉や態度も今になったら何か新しくわかるかもしれない。
次の休みは追悼してしばらくぶりにサリンジャーの世界に浸るのも悪くない・・・。
(竹田)