先週末早く帰って自宅のTANNOYで聴いたMozart Requiem。
今後、もっと聴いていった時に
「やっだ恥ずかしい、あんなこと書いて」と思うか、
「第一印象って意外とあっているのね」と思うか、
どちらか分からないですけれど、
学生時代に歌ったこともある(※)このレクイエム、その後も聴いているものの、
今回のように感じたのは初めてだったので、ちょっとモノローグとします。
(※母校では高校3年生でモツレク・大学1年生でベートーヴェン第九・・というのがありました)
この3枚を聴きました。
・ティーレマン指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、
・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
オーケストラも合唱団も、言ってみれば何もかも違うので、指揮者がこの音の責任者ということで・・
一言で言えば、「スペクタクル」。
眼の前に浮かんだのは、ヴァチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井画、ミケランジェロの最後の審判。
しかも修復後の極彩色の。
細部まで精密に描かれ、バランスもよくて、非の打ち所のない美しい絵。
しかしながら、私には少しばかり表面的な美しさに感じられてしまう。
修行が足りない!?
そうだ、名盤と言われるベームはどうだろう。
以前聴いた時は、なんとなくまとまりがないように感じられて、いつしか聴かなくなってしまった。
確かにティーレマンに比べると、粗さを感じるけれど、それは果たして粗いというべきか?否。
ティーレマンの演奏が絵画的で、つまり「客観的」と言い換えるとしたら、ベームの演奏は、その世界の中に自分が身を置いているのを後から知るような感じ。
抗うことが出来ない大きな力、想像を超える世界、そういう大きさを感じる。
その響きには、「敬虔」「畏怖」「敬愛」を感じる。
こういうことって本でよく読むけれど、自分が感じると思わなかった。
他とは全く別の、アーノンクールの哲学的観点を感じました。
神や人間の生死を異なる次元で構築していて、心の静けさを感じる。
達観・・というのが適切か分からないけれど、運命をそのまま受け入れる・・
ベームが動的ならアーノンクールのは静的。
響きの美しさは、どれもそれぞれ甲乙つけがたい。
でも感じることがこれだけ異なるのは・・。
ベームは、1894-1981
アーノンクールは、1929-2016
ティーレマンは、1959ー
生きた時代が違うということか。
興味深いのは、アーノンクールは、オーストリア貴族の伯爵家の長男ということ。
英国ドラマの「ダウンアビー」を観ていて思いますが、その領地を任されているいわば一国の主の感覚(その跡継ぎ)は、普通とちょっと違うのではないのかしらと思うのでした。(英国とはまた異なるでしょうが)
そんなことを言い始めたらキリがないですが。
ちなみに、この3枚は、
名盤と聴いて随分昔に手にしたベーム
リリースされたその年のレコード芸術で褒められていたティーレマン
コンサートでアーノンクールの演奏を聴いた時期に、買い集めたうちの1枚。
・・・ということで手元にあったものです。