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7月中頃、コロナ禍で初めてコンサートに出かけました。ジョナサン・ノットのマーラー、交響曲第5番@サントリーホール。

久々のコンサートで、演奏の感想などとは別に「ああ、たまには行かなきゃな」と強く思いました。

それはナマ音を聞かないと、、というのはもちろんですが、今回はその話ではなく、音楽との向き合い方について考えるところがありました。自宅では、コンサートほどの集中力を、交響曲一曲分の時間に持続することが難しいです。携帯に連絡がきたり、コーヒーやトイレに立ったり、何か別のことに気が回ったり(主に音やオーディオの具合)。

それは映画も多分同じなんですが、映画は映像があるからまだ家でも集中できるかも。でも、音楽では、上述の通りです。一方、コンサートは場所も時間も制約があり、詰まるところ社会的行為なのです。今回、マーラーの5番をそうして聞いてみて「あ、そうか」という気づきみたいなのがたくさんありました。

例えば、それが正しいか正しくないかはともかく、映画「ヴェニスに死す」でも使われた有名な楽章、4番アダージェットの在り方。

集中して通して聞いて感じたのは、3楽章までの大騒ぎがあるからこそ、4楽章の静けさがいや増し、深みを帯びて生きてくるのではないかということ。言ってしまえば、4楽章を聴き手の内面の奥底、どこまで掘り下げられるかは、S/N比と言わないまでも、3楽章までの流れがいかに大切か、みたいに感じました。

4楽章だけ聞いていてはわからないことでした。

それから、やや難しい気質のマーラーが、奏者に出しにくい音を出させたり無理をさせるという話を聞いたことがありますが、マーラーも人の子、最終楽章では終わりよければ全てヨシ、みたいな作りにしてたんじゃないか、とか。。

これらは、ものすごく、身勝手な聞き方で、楽譜も読めない素人意見ですが、そんなことに思いを巡らすのは楽しく、毎夜1ページ読んでは眠ってしまう村井翔著の「マーラー」をもっと先まで読み進めたいと思ったり、わかるかどうかともかく楽譜を追ってみたいという欲求が自分の中に生じるのは、とても喜ばしいことでした。

一つの井戸を掘り下げたら、地下では繋がっているというのは白州正子さんの残した言葉ですが、一つのそんな経験が、他にも繋がっていくのはとても楽しい。

全部のコンサートに行く必要はないと思います。でも、たまには必要だなぁ。

なんだか、遠い存在だったマーラーにこんなに興味を持つとは思わなかったけれど、現代に近い人だから、感覚はなんとか追えるかもしれない。それを足がかりに、飛石の歩を進めるようにしていけば、ほかの作曲家への理解も深まるかもしれない。

ミュージシャンは、ロックでもJAZZでも、いろんな音楽を聴いていて、クラシック音楽に親しんだ人も多いから、またその影響も見られるかもしれない。

そんなこと考えていたら、100歳まで生きても時間が足りない気がして来ました。

55年後の銀座、サウンドクリエイトに居たい!?

(竹田)

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