「シャネル」と聞いたらどんなことを想像しますか?
おそらく、当ブログを読んでいらっしゃるオーディオ愛好家の皆様にとっては、「高い」とか「過剰装飾」とか、あまりよいイメージを持たれない方が多いのでは?
着飾ることは大好きな私でさえ、銀座のブティックの前を通り過ぎる時、「わっ、素敵!!」とウィンドウを見入ってしまうことは滅多にありません。
中学生の頃、ロミー・シュナイダーとシャネルが寛いで映っている写真を見て「いつかこんな・・・」と思ったことはありましたが、ここ最近のコレクションを雑誌で見ても(もちろん買えないけれど)お手本にしたいようなスタイルはないのです。
昨年は生誕125周年ということで、映画が3本も上映されたとか。
今のシャネルに興味はなくとも、「ココ・シャネル」という時代を切り開いたその人に興味はあります。
「アメリ」のデビューが強烈な印象だったオドレイ・トトゥは、ガブリエルと呼ばれた子供時代からシャネルとして店を開くまで。(「ココ・アヴァン・シャネル」)
すっかりおばぁちゃんで太ってしまったが貫禄で演ずるシャーリー・マクレーンと、若き日のシャネルを演じるバブロア・ボブローヴァ。シャネルが第一線から退き復帰する1954年と、オドレイ演ずる時代と重なる1900-1920頃を行きつ戻りつしてシャネルという人を描く。(「ココ・シャネル」)
上記2本とは別の視点で。これは一番皆さま興味を持たれるかもしれません・・・。
「春の祭典」「火の鳥」などで、かの有名なストラヴィンスキー。彼とシャネルとの恋を描いた「シャネル&ストラヴィンスキー」。
シャネルはフランスの女優アナ・ムグラリス。ストラヴィンスキーはマッツ・ミケルセン。
誰かと言うと、最近の「007カジノ・ロワイヤル」で敵役の目から血を流す人。(どんな覚え方だ・・・)写真で見る限りご本人とはだいぶ雰囲気が違うような・・・。
(ストラヴィンスキーがどんな人か知らないのですが、情けない感じに描かれていてあまりお勧めしない!?)
映画自体は、「シャネルなのに全編英語」という難点を除けば、シャーリー・マクレーンの映画が一番面白かった。というか誇張感があまりないような感じがしました。
どのシャネルが本当かなんて、きっと誰にもわからないし、映画「羅生門」みたいに、一つのことについてでさえ人によって見方が全然変わってしまうのだから、誰かを描こうとしたらなおさらでしょう。
でもこの3本の映画を見、本を読んで感じたのは、時代の変わり目に、ココ・シャネルは波にのまれるのではなく波を作った人だったんだということ。大きな波を。
シャーリー・マクレーン扮するシャネルは言います。「大切なのは『ヴィジョン』。装いは科学。 美は、武器。」ココ・シャネルのスタイルには、「動きやすさ」や「実用的」という目的があった。ただ、それだけではない。「女性」として「個」として「美を纏う」ことを進めたのだと思います。
今の時代にココが生きていたら、どんなものを作るんだろう。
今のシャネルはラガーフェルドのシャネルであって、ココのシャネルではないように感じます。 ここ数年のファッションは何でもアリで、「ヴィジョン」を感じられない。
もちろん第一線で活躍しているデザイナーはヴィジョンを持って作っていると思います。しかし、素人目に見ると、時代の早すぎる移り変わりや情報のスピードに、作り手もちょっと飽き飽きしているようにさえ感じてしまう。
CGで作られた映画と同じように感じるのです。技術はあるけれど、心が感じられないからいつか朽ちてゆくような。
「シャネル 20世紀のスタイル」という本の中に、当時のココの写真や、ファッション誌に紹介されたアイコン的なスタイルの数々も納められていました。
全く古びておらず、むしろ新しい。それは多分「スタイル」があるから新しく見せるのかもしれません。
最後に、非常に興味深いことが。
先日やっと最終回を見終えた「篤姫」。篤姫が亡くなったのが1883年12月。
その後何とはなしに手にとったシャネルの映画3本。シャネルが生まれたのは同年8月。
篤姫は大奥を終わらせ、徳川家を背負いながら「徳川の心」を伝えようと江戸城を出て、シャネルはコルセットや動きにくい服装に終わりをもたらし、女性に動きを与え、「スタイル」を持つことを進めた。2人とも最初から大きなことをしようとしたわけではないでしょう。きっと信念が人より何倍も強かったのだと思います。当時の「女性であること」のハンデを、強くしなやかにかわしながら生きた女性たちに感化され、「私も強くなろう!」と思うのでした。
(竹田)