お店でNespressoを使っています。
ネスレ社のエスプレッソマシーンで、カプセルに入った珈琲と水をセットすれば簡単にエスプレッソができます。
カプセルの色で、珈琲のブレンドの仕方が違ったりデカフェのものがあったり種類も豊富。
これで珈琲を入れていて、ふと「何か味気ないな」と思いました。
風味があまりない・・・。
いや、違います。
淹れたての珈琲は、立派な泡立で、飲んでみたらやっぱり美味しい。
ではなぜ?なぜなんとなく味気ない気がするのでしょう?
人間はあまのじゃくで、便利さや目新しさを求めているにもかかわらず、いざ登場すると「手がかかっていないので、なんだかうまくない」と懐古主義的主張が心に芽生えるからでしょうか。
それとも
「毎回寸分違わない粉の量で絶対に同じ味にできるよ。」
という、人の敷いたレールに乗っている感が嫌なのでしょうか?
そこに、スタンダードは達しているけれど、奥行き感が感じられない。といちゃもんつけているのかしら。
はたまた
「便利さ」に乗っかった自分への嫌悪感!?
そんなことを考えているうちに、頭はまたオーディオと話を繋げようとします。
ネットワークプレーヤーの存在がみとめられた時に、ヒトはそれと対比してCDを考えました。
パッケージメディアの存在については多くの人が語っているので今日は別のことを。
その他にこんな心理も働いたのでは?と予想してみました。
CDという円盤の存在に、「CDにどんな音が入っているかわからない」要は「どんな可能性を秘めているのかが分からない」感じを見出したのではないでしょうか。
円盤を透かしたり凝視したりしても信号は見えてこないです。
それはCDプレーヤーだけが、その魔法を解き明かす・・・。
一方、CDをデータ化する時に使うのはパソコン。
趣味嗜好の強いオーディオと対極にあるような、超普及品。
しかも、円盤の中身を可視化出来る雰囲気は、今まで以上にデジタルな感じがしてしまった。
珈琲の分量が入れる人の機嫌によって異なるとか、湿度や乾燥で粉自体が変わることはダメなはずなのに、単純化された「カプセル」という型にはまったことで居心地の悪さを感じる。
それに似て、CDの円盤の向こうに広がりを見せた世界は、もっと単純化されてしまった。
CD自体がアナログレコードに対してそうだったはずなのに、音楽ファイルという実体がないようなものの登場で、なんとなくレコードの存在にスライドした?
CDは棚から出してCDプレーヤーのトレイに乗せる。
そのプロセスがネットワークプレーヤーでは便利になりすぎて、苦労していれた珈琲より奥行きがない感じがする?
でも、それは「気分」でしかないことも知っているし、その「気分」が結構大切であることも知っています。
たぶん、想像力をかきたてられない感じが嫌なんだと思いますが、ネットワークプレーヤーが出る前にそんなことを考えたっけ?
アナログレコードをターンテーブルにのせる思い入れと違って、CDをトレイにのせることは惰性でやっていましたもの。(高級機は違うかもしれませんが)
以前面白い話に出会ったことがあります。
カメラの世界でも音楽の録音の世界でも、デジタルで出来ることが多すぎて使いこなしていないからいやなだけで、元々本当に上手な人が使いこなしたらものすごく優れたものだ。と。
アナログがいいというのは、やりなおしができない危機感によって集中力があがるからいいものが出来た気がするんじゃないか?
賛否両論あると思いますが、これって一理あると思います。
何にせよ、何事も経験してみないことには判断出来ないんじゃないかとも思います。
ネットワークプレーヤー便利以上に音がいいしなー。
ちなみに、珈琲の話に戻ると、カプセルだから入れている間ほとんど珈琲の薫りがしなくて、「珈琲飲むよ!!」と脳が認識していないから・・・と、単純な理由に思い当たりました。
Legato EYES