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どのアイテムも語り継いで欲しいストーリーがあります。
本日はワタクシ加藤からこちらの一脚をご紹介いたします。

今でこそ有名なデンマークの家具デザイナー “ポール・ケアホルム” 。
彼にとって幻となるチェア 「PK0A」(PKゼロA)のお話。

振り返るとそう遠く無い1980年代。
それまで生きていたのだから、今の医療技術が発展していたらもしかしたらご本人に会えたかもしれいなぁなどと思いを馳せていたのですが。

     

彼の経歴をサクッとお話しすると、
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1924年 デンマーク北西部の田園都市生まれ。
地元の家具工房や並行して技術学校に入り、幾何学と製図を学ぶ。
実技能力の長けていた彼は18歳で家具職人の資格を認められる。
1948年にコペンハーゲン美術工芸学校に入り、教師だったハンス・J・ウェグナーのもとで学ぶ。また彼の事務所でも修行。
卒業後は、フリッツハンセン 社へ就職するがわずか1年ほどで退社。
その後はコペンハーゲン美術工芸学校の講師と事務所に勤務し実務と教育の両方を図る。
ウェグナーの事務所で働いてた時に出会った親友、コル・クリステンセン社の家具の製造・販売の共働き。
1955年に『PK-22』を発売〜

(間違っていたらスミマセン。ご容赦ください。)
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ここで興味深いのが、20世紀を代表するデザイナーで椅子の神様とも言われる”ハンス・J・ウェグナー” の下で学んでいたこと。ここで子弟関係が育まれたのでしょうね!

さて前置きが長くなりましたが、
今回ご紹介するPK0Aは、ポール・ケアホルムが新卒でフリッツ・ハンセン社に入社し初めてデザインしたプロダクトだったそうです。
(これで新卒?!なんて完成度の高いデザインなのでしょう ←え。どの目線w)

その年、アルネ・ヤコブセンのアントチェアがもう一つのデザイン候補として選ばれました。
両方共3本足デザインの椅子。協議の結果、アルネ・ヤコブセンのアントチェアが優先して製品化されたそう。
(その背景として当時は既にヤコブセンは成功を収めていて、フリッツ・ハンセン社との協力関係が強かったという説もあり?!)
その後ポール・ケアホルムは、その悔しさや意見の食い違いもあり、たったの1年でフリッツ・ハンセン社を去ってしまうのでした。

が、しかし!
彼の実力の高さは折り紙付き。
1980年ポール・ケアホルムの死後、コレクションの製造権はメーカーへと移っていったのだそうです。
1982年フリッツ・ハンセン社は、当時より技術力と素材の調達力が高く、ケアホルムの才能を初期から認めていたメーカーとして遺族賛同の下、元々製造していたコレクションの製造権を継承することができ、以後、現在に至るまで、それ以外の製品も製造が可能となったようです。
1997年に一度だけ販売された 「PK0 600脚 限定コレクション」は、あまり市場に出回ることがなくコレクターの中でも「幻のPK0」と言われていた椅子。
フリッツ・ハンセン社 創業150年復刻版という形でついに「PK0A」と生まれ変わり、日の目を浴びる時が来たのでした!
今回は新仕様を用いてより美しく、彫刻的な形がモダンな空間へとアップグレードさせます。
(PKついにやったね〜ここまで長かったです。)
こんなに製品化された自分の椅子が見れていないご本人のことを思うと残念でなりませんが。
世界中に多くのファンがいることを知らせたらどんなに嬉しいことか。
しかしながら、モノづくりの根本にあるのは時代を越えて生き続けるということなのかもしれない。

色んな人の思いが紡いで、この現代に光り輝いている椅子。
この椅子の真髄は座り心地と思います。
背中をあずけた時のフィット感と伸びのよさ、思わずハニ噛んでしまうような座り心地。
この椅子で何しようか、どこに置こうか考えてしまいます。
椅子は座って初めて感じるもの。
お店に展示している椅子は、ぜひ進んで座ってみてください。
名作椅子が現代に語り継がれる理由がほんの少しわかるかもしれません。

将来のご自慢の一脚に、ぜひ。
(加藤)

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