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1年半ぶりの上洛。目一杯深呼吸してきた。

★ まずは伏見稲荷大社 慢心するべからず
京都ステイは、いつも伏見稲荷大社のお参りから始めます。
毎日お参りしている店の近所の幸稲荷さまは伏見稲荷さまから勧請されたという話もあり、お礼参りに伺うのです。
(商売人ですから!)
あまりに暑くて、お参り中にサングラスをかけたままだったことに気が付く。
季節外れのようだけど年に一度は伏見のお稲荷さんでおみくじを引く。
「慢心するべからず」という内容が書かれていて、お調子者の自分を戒める。

帰りかけてやっぱりもう一度サングラスを外してお参りする。
少し風が吹いてとても気分が良くなる。行きたいところが山ほどあるので先を急ぐ。
タバコ屋の間口くらいの小さなお稲荷さんの店があって、買って帰る。

★ 三条駅で 便利と不便
たわしやブラシの専門店で200年続く桔梗利 内藤商店に立ち寄る。
ご高齢の腰の曲がったお店のおばあさんが「使われたことありますか」と聞いてくださって、
以前いただいたものにカビを生やかしてしまってと話すと、ブラシの根本は毛が詰まっているので毛先を下に向けて置いておけばお風呂上りにはもう水が切れていますから長く使えますよと、よく通る声でお話しして下さる。
他に、馬の毛をギュッとまとめて10㎝くらいの棒状のものでポンポンと布をたたいてシミ取りに使うのだとか、
ココヤシのバスマットは、使った後に縦かけて置けば乾いてしまうのだとか、経年で段々茶色になっていくこと、
そういう人間の知恵を直接伺える機会がどんどん減っていて、とてもありがたく温かい感じがする。
おばあさんの手元には使い込まれた大きなそろばん。
とってもあこがれるけれど、今から私が使うというのも話が違う。
便利というのは、人によって異なるものなのだと思う。
スマホというのは便利だし今からやめることはできないけれど、これの不便さもある。

お店を後にして、鴨川沿いに座ってお稲荷さんと行こうじゃないか。
お稲荷さんを包んだ紙は、かろうじて電話番号が載っているものの、お店の名前が丁度切れている。
偶然でしょうが奥ゆかしい感じがして、なんだかほっこりして顔がほころぶ。

お店広げていると、浮浪者に「たばこ1本くれんか」と話しかけられる。
持ってませんと慌てて立ち上がってその場を離れる。
でもどうしても外で食べたいお稲荷さん、今度は高瀬川のわきで急いで頬張って喉が詰まる。
「したいこと」と「できること」は、いつもちょっとだけそりが合わない。

★ 町歩き 気ままに・・だけど行きつけも
三条から寺町のアーケードを抜けて、京都市役所の脇を少し行くとアジアの様々な地域のアクセサリーやショール、古布などを扱っている小さいお店がある。
ここも必ず寄るお店。アフガンの細かい細工のトルコ石のネックレスや、ラオスのザクザク編まれた手織りのショール、更紗の端切れ、ココナッツの皮でできたアフリカのネックレス・・などなど。
ここで求めたものはデパートやセレクトショップの値段の何分の一かで細工の細かさはそれより上。
何処でどんなふうに作られたかとか、とっても高くて手が出ないけれど、信じられないくらい細かい手刺繡が施された羽のように柔らかいパシュミナを引き出しから出して見せてくれたり、いろんな話をして「また必ず来ます」と自分に約束をして店を後にする。
京都のお店はみんな優しいから一人旅が楽しい。

★南禅寺金地院
京都市役所から東西線で南禅寺を目指す。
金地院は子供の頃の母の受け売りで「こじんまりとした好きな場所」。
南禅寺の中でなぜ金地院が好きと思うのか、そういえば聞いたことがない。

ここには長谷川等伯の手長猿の襖絵がある。
何かと雑誌などでも取り上げられるいわゆる「かわいい」系。
普通には見られなくて、特別拝観で時間を区切って案内している。
そういえば特別拝観はしたことがない。
等伯ファンなのに、観もしないで猿には興味がないとは失礼な話にも思えて、次の会の時間を確認して一度出る。
石川五右衛門「絶景かな絶景かな」の三門の下をくぐって、天授庵のお庭を見て戻ると
「もう帰らはったかと思いましたわ」と受付のおじさん。
案内がもうすぐ出てくるので、方丈のほうでお待ちくださいと。
待っていると思いがけず作務衣姿の若い女性が出てこられ、手元のアップルウォッチを見ながら30分きっかりから始めますのでもう少しお待ちくださいとのこと。

ちょっと緊張した感じで早口のように思えてとってもわかりやすい説明、途中で質問を挟むことを憚られたのはお話しが順序だててよりわかりやすくなっているように感じられたからで、マニュアルっぽいのとはわけが違う。
奥の部屋へ進んで、等伯の襖絵「猿猴捉月図」は、説明を受けて初めて知ったが、猿がしたのほうへ手を伸ばしている先に言われないと気が付かないほどのうっすらぼんやりとした白い丸があって、それは水面に映った月なのだという。
手に入らないものに欲を出すことへの戒めともいわれると聞いて、朝のおみくじを思い出す。
明かりを消して自然光で見せてもらうことをお願いする。タイムスリップした気になる。
見たもの聞いたことがみんなしっくりきて、とてもよい時間で、説明員の女性に、何か言いたかったけど「ありがとう」しか浮かばなかった。
でもとても「ありがとう」だった。
今の気分を伝えるのにありがとうより上等の言葉なんて、かえっていやらしい気もして、言い足りなさを抱えながら門を後にして振り返ると、改めて東照宮、徳川家康公の遺訓というのが目に入った。
「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し 急ぐべからず」から始まって、
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
とか
いかりは敵と思へ
とあり、最後に
「及ばざるは過ぎたるよりまされり」
としめてあった。
やったもん勝ち言ったもん勝ちのような現代、当たり前のような言葉を改めてかみしめる。

殊勝なことを言ったって、明日にはもう忘れて無駄使いしたり、慢心したりしているかもしれないけれど、
こうして時々立ち止まることは、いいなと思った。
京都は私のパワースポット。
(竹田)

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