先日の休みに、文京区の小石川植物園に行ってまいりました。
父のなんだったかの関係で、年に一度休館日に開けてくれる(事前に申し込みが必要)とかで、人が少なくて、見て回れるので、ここ数年の家族の季節行事になっています。
桜はもう終わりかけでしたが、天気も良く、ツツジやヤマブキ、こぶし、その他小さな花から大木まで、緑が生き生きとして気持ち良い1日でした。
昨年も一昨年も、家に帰って絵に描こうと資料用に写真を山のように撮ったのですが、結局何もせずに1年が経ってしまったので、今年はいっそと、小さな画用紙と鉛筆1本持って、その場で写生。
これが意外と楽しかった。
オーディオに出会ってから、見えないものを見ようとすること、瞬間瞬間で音を捉えることなどをしてきたからか、絵を描くときに、形を捉えるのは割合上達。(素人の話ですヨ。)
Faber Castellの4Bという太い芯の鉛筆1本で、強弱をつけたりして、立ったままささっと書いて自己満足していました。(何せ館内は広いもので、立ち止まって描いていると両親とはぐれる。どんどん行ってしまうウチの自由家族)
真面目な性格(!?)から、形を捉えるのは上達しても、面白みのない絵に我ながら辟易して「描いたってしょうがない」と、少しの間離れていましたが、この日ちょっとした発見が。
上の絵、ツツジの蕾。
なんの面白みもない絵ですが、実際は、蕾の産毛が陽の光を浴びて透明に光って、生き生きと花を咲かすのを心待ちにしている感じでした。
その様子に、小さく感動して記憶にとどめたいと思い、写真を撮りますがその産毛の感じがうまく出ない。
いいカメラ、もしくはiPhoneだって腕がよければ別かもしれませんが、その小さな喜びに満ちた蕾の感じが出ないのです。
細く柔らかく短い産毛は、写真では大まかな線になってしまう。
それで、鉛筆とスケッチブックに変更。
上手くもないし、写真に勝るわけでもないのですが、自分の感動は鉛筆(カートリッジ!?)を通して残すと、写真で撮るよりも記憶に焼き付いたような感じがします。
昔は写生なんてしても、ちっとも面白くなかったのですが、花一つ、枝一つ見ていたら、この流れからこうなる・・・、この集合体がこの形になる・・というのを見るのがとても面白くて、没頭。
かと言って、写真より絵が・・という話ではないのです。
個人的体験です。
ここでまた先日のイベントの時のデジタルとアナログのことが頭を擡げてきました。
新たな考えや発見があるわけではないですが、ここのところ、ずっとデジタルとアナログについて水面下で考えている感じ。
デジタル=0/1の世界は、白か黒かのように、その発生自体、突発的に起こったようなイメージがあります。
しかし、昨日の今日始まったわけでなく、流れの中で起こったことで、またその流れはこの先限りなく微細になっていくでしょう。
陽が落ちて月が見え、また陽が昇るように、そしてそれは二度と同じ時がないように、ずっと続いてきているのだと思います。
白と黒で描くことは実はものすごいグラデーションを持っていて、もしかすると部分的には色彩に勝る部分もあるかもしれないとか、色々途中で論点がずれていくので、自分で行き詰まって、
何が言いたいのか自分でもはっきりしませんが、ずっと見てみよう、考えてみようと思っています。
考えること、見ることを続けるのは、絵を描くことを続けるように、自分のためとして。
「やっても仕方ない」ことなんて、ないんじゃないかと思う今日この頃。