私の生まれた松本市は国宝松本城を中心とする旧城下町で、戦災を免れたこともあり、重要文化財の旧開智学校などの歴史的建造物が多く残る情緒ある城下町です。
松本城は安土桃山時代から江戸時代初期に建造され、天守は国宝に指定されています。
別名「烏城(からすじょう)」とよばれていますが、この呼び名は文献上には一切、記載されていないということです。
幼少期から別名「烏城」ときいていましたが、市民からの愛称のようなもので、姫路城(通称:白鷺城)の白漆喰で塗られた城壁の美しいさに対して、初重から最上重まで黒塗りの下見板(板の上塗りは黒漆)が貼られた城壁の松本城をそう呼んだのかも知れません。
松本の人々は白く大きな姫路城への憧れがあったのかもしれないと、勝手に思っています。
戦災から逃れ天守閣郡は建築以来400年の歴史を誇り、昭和11年にはその天守、子天守郡などの5棟が国宝に指定されました。
日本のお城の中で江戸時代またはそれ以前に建設され現在まで天守が保存されている「現存天守」は12城あります。
その中で国宝は4城、犬山城、彦根城、姫路城、そして松本城です。
そんな国宝の松本城の天守が取り壊されそうになった事実がありました。
実は明治5年に競売にかけられていたのです。
(この事実は大人になってから知りました)
江戸末期、徳川幕府が滅び、廃藩置県が行われるようになり、そうなると各地のお城は無用の長物にり、天守が売りに出されたそうです。
松本城もその一例です。
旧藩主に城の管理を任していましたが、廃藩置県で藩が廃止され後、松本は明治4年に筑摩県となりました。
しかし維新改革後すぐの時代、筑摩県は松本城を維持できなくなり、明治5年に競売で売り出された松本城天守は235両で落札され、取り壊されることになったそうです。
235両は今の米価に換算すると約400万円になります。
当時の価値は理解できませんが、400万円で今国宝として歴史的建造物の松本城が落札されたとは考えにくいことです。
しかし、この松本城のピンチを救ったのが松本の人々でした。
明治維新後に太政官布告された廃仏毀釈が行われましたが、人々は古いものを破壊しても新しい時代が到来されないことを身に染みて知っていました。
松本城が取り壊される、と知った人々は天守を取り壊すより残すことによって文化が生まれて発展していくと考えたそうです。
そのなかで市川 量造という人物が中心となり天守を初めとする松本城を守りました。
丁度、その時代に行われていたウィーン万国博覧会にヒントを得て、松本城の天守を会場にして明治6年から9年の間に「松本博覧会」を5回開き、その収益と人々の寄付で松本城を買い戻したそうです。
市川 量造はじめ人々が何を次の世代に残し、その重要性を真剣に考えたからなのではないかと思います。
そんな人々の思いが受け継がれ、戦災からも免れることができたのかもしれません。
幼少期から身近にあった松本城に先日、短い時間でしたが帰省した際に立ち寄ってみました。
その日は松本でも初夏を思わせる気温で、五月晴れの中、黒い化粧をした松本城は堂々と立ち振る舞っているように見えました。
以前のブログで松本出身であることを書かせて頂きましたが、そのブログをお読みいただいたお客様から
「素晴らしいお城のある街に生まれると云うことはとても幸運なことです」というお言葉を頂いたことを思い出しました。
松本城を眺め本当にその通りだと、実感しました。
松本城の向こう側には常念、槍が岳を始めとする北アルプス連峰がそびえ、間だ頂上付近には雪が残り、これまた、何とも壮大な景色でした。
そんな景色を眺めながら、松本の先代の方々は偉大な建造物を残してくれたのだな、とつくづく思いました。
私の曽祖父母、祖父母も両親も松本城を身近に過ごしていました。
国や行政に任せるだけではなく、国や地域を自らが守っていかなければならないのだと思いました。
そして私達もこれから一生懸命、次の世代に形あるものを残すことが使命なのだと改めて感じました。
三浦 祐士