今朝の納品先が、電車で片道1時間。手持ちの本も読み終えてしまいました。
普段あとがきも解説も読まないのですが、手持無沙汰で何気なく読んでいました。
少し前にブログでも触れた向田邦子の「父の詫び状」で、間にあっちの本こっちの本と寄り道していたので今頃読み終えたのでした。
女史は、売れっ子シナリオライターだったから、書くことに関してはもちろんプロでしたでしょうが、台本ではなく、読み物・・読まれることをメインとして書かれたものとしては、割と初期のものだったということを初めて知りました。
それも「銀座百点」の連載として。
エッセイストとしてもベテランかと思っていたので、完成度の高さに驚いたのでしたが、解説では沢木耕太郎もそのようなことに触れていました。
氏の解説をちょっと引用すると・・
「谷沢永一は『父の詫び状』を評して《初めて現れた”生活人の昭和史”である》という。確かに、そこにはとりたてて変わったところのない中流で平凡な家庭の、主として戦前における生活の相が活写されている。
かつて三島由紀夫は、円地文子の『女坂』を読むと、自分の幼少時代に残っていた「明治」という時代がよみがえってくるような気がする、と語ったことがある。それと同じように、戦後に生まれ育った私にも、『父の詫び状』を読むことで、「戦前の昭和」という一つの時代がおぼろげながら感じ取れるように思える。」(引用:向田邦子「父の詫び状」文春文庫 P288)
ふと気が付くと、手のひらの小さい画面とにらめっこしがちで、それは世界に繋がってはいるけれど、自分の足元や身の周りの風景を見落としているような気がします。
今日なども、3,4回目は伺ったお宅だったから道順が分かったつもりで、改札を出た途端に右か左かもわからず、結局Google Mapのお世話になる始末。
初めて見るような景色もあり、如何に周りを見ないで歩いてきたかを実感しました。
情報社会と言われてはいるけれど、その情報は画一的・短絡的で、なんでも一つの情報に枝葉をつけた程度のものが蔓延しているような気がしなくもない。
ファッションもインテリアショップも、少し前は個々のセレクトが面白かったように思いますが、今は扱われるものがどこも似たような感じに感じるのは私だけなのかなあ。
もう一つ沢木氏の解説から引用すると・・・
「『父の詫び状』において、語られる挿話の数は膨大なものだが、その核をなすのは「記憶」というものの存在である。向田邦子は、それがどれほど昔のことであれ、実に生き生きと記憶を現在に甦らせる。」(引用:上記同書 P292-293)
先日ニュースで、映画もドラマも若い人が1.2倍とか1.7倍速で見るということを報じていて、時間の流れがどんどん早くなっているんだと、少々空恐ろしい感じがしました。
でもどんなに早くなって、どんなに多くの情報を得ても、向田さんのような文章を書く人はもう出てこないんだろうなと。
向田さんをそんなに昔の人だとは思わないのだけれど、もうどんどん昔のことになっていくんだな、と。
そんなことは我関せずと、桜は毎年同じように咲いています。
(竹田)