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先月から、必要に駆られてワーグナーの「指輪」を聞いていますなどと豪語して、さも「私ワーグナーちょっとわかってきました」的な「匂わせ」がプンプンしていましたが、いまだに全然ワーグナーは心を開いてくれません。

駆られた必要性は過ぎ去り、そのことについては、いずれPhilewebで記事になるのでしょうから、それは大変楽しい記事としてご紹介できると思いますが、それとは別個に、個人としてまだワーグナーの背中しか見られておらんのです。

マーラーは、そうでもなかった。
と言ったらマーラー愛好家の方に失礼かもしれませんが、マーラーはまだ「個人」であったのです。「人」。
大きいけれど、もう少し登りやすい山。

ワーグナーは、なんかもっとエベレストというか、大きいんですよねー。頂上に行った景色が全く想像がつきません。
よく「国まで滅ぼした」という枕詞を使われるワーグナーですが、マーラーの性格的に国は滅せない気がします。

人間の脳は宇宙そのものだと思うので、マーラーの音楽は精神的な意味において、宇宙であると思いますが、ものすごく人間的なものを感じます。

大好きなモーツァルトは天国の音楽などと言われることもあって、確かに人知を超えているようにも思います。ですが、モーツァルトやベートーヴェンに、大きな意味での人間や神は感じるけれども、男女は感じません。

ワーグナーには男性的なものを感じます。男の子が好きそうなものとか、男子的な強さや権力欲や、弱さ色々なもの。
例えば少し時代が被っていたとしてもマーラーにはそういう男の子的なものをあまり感じない。もっと根本的な存在に関わること。例えば哲学の言葉で「コギト・エルゴ・スム」(我思う、故に我あり)みたいなことを思う。

でも、ワーグナーの音楽には、個ではない。自分(個)の中で完結している宇宙ではなく、互いに共鳴し合う、個がいて、そこに3人の人がいたら、それがさらに無限に広がっていく、そういう宇宙を感じるんです。

だから音楽がこれだけ大きくて、私のような生半可な知識では、処理しきれないのかもしれない。
あと、ワーグナーの音楽は、例えば歌舞伎において「太閤記や平家物語を基礎知識として観る」ようなところがある気がする。
深い知識がなくたって楽しめるんだけど、知るともっと奥深いから、教養のある人に脳にとっては超美味しいご飯。
そういう端々が見られるので、すごく興味を持っていて、聴いているんだけどまだ門は開いてもらえない。

それって好きじゃないんじゃないの?
と自問自答もしましたけど、やっぱり理解したいんです。
ワグネリアンの熱弁を聞いたり、やはりこれだけ大きいと思える山があれば登りたいではないですか。
しかもそれは、ものすごく人間的なものを感じるわけです。

高い山ですが、何かを求めて毎日少しずつ聞いています。
(竹田)

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