定休日、暑さで目が覚めること5時半。止まっていたクーラーをつけても覚醒してしまったので起きることにする。
母の部屋のクーラーをつけて、階下に降りる。この時間は普通に明るい。窓をあけると少し風が吹いて、これならエアコンなしでも居られそう。
せっかくの静けさが勿体無いからTVはつけずに、久々に実家のEMPIREと一対一での音楽時間と参りましょうか。静かなピアノ曲を色々かけてみるけれど、あまりしっくりこず、好きなアーティストの携わるアルバムラインアップを眺めて「ハイドン行ってみましょ」。
ハイドン ピアノ・ソナタ38、39、47、59番の収録されたアルバムをプレイリストに入れて、スマホからも解放される。
このメロディは何番?とか、そういう興味は持てなかったけれど、ハイドンがかすかに流れるなかでソファに寝転んで、空を見上げたり、母の庭を眺めるのは楽しいという発見があった。
雲間から時々差す陽の光を浴びて、緑の表情が音楽のように変わる。そよ風に身を委ねる木々の嬉しそうなこと。ああ、きっと昔はこうだったんだろうなあ、そういう時代の音楽のような気がする。今のように情報が飛び交う、忙しい頭にはハイドンのピアノはよほど聴こうとしないと届かないのではないか。情感に訴える暑苦しさと無縁の、清廉とした音楽。我関せずと言えるかもしれないような、あっさりとした自然の美しさ。
暑い中お寺に行って、涼むようなそんな時間。石庭とか、自然に見えて実はきちんと考えられて作られた庭。ハイドンのピアノはそんな感じというのが、第一印象でした。なにせ意識的にかけたことが無かったので。ところでモーツァルトの音楽は、はたと光る苔の美しさに見惚れて立ち止まると、周りを見たらそこら中自然の美しさがあって、死生観に浸るみたいなそんなイメージ。違うかな。
私はこの半年、マックス・リヒターのヴィバルディ四季の再構築みたいなアルバムが好きでよく聞いているけれど、あれは現代人による現代の四季だと思う。全く新しいものを作るのでなく、古いものを現代に最適化する。良さがわかるように見せる。現代風の洗練が成功した珍しい例ではないか。
再来月にリリースのヴィキングル・オラフソンのモーツァルトのアルバムは、同時代の別の作曲家の作品と合わせて「絶妙なプレイリストのように配置」したアルバムなのだとか。これも現代ならでは。
今しかわかり得なかったような知識や事実を得て歴史を見直すという作業は、サスペンスのように面白いことだと思う。絵画にもそんな話がたくさんある。現在と過去の融合。
ハイドンはまだ鳴っている。
隣の家のTVからアナウンサーのおはようございますが聞こえる。2階で誰かが起きる音がする。父が階段を降りてくる。
世の中が動き始める。
(竹田)