5月の晴れ間に、毎年思い出したように聞く「On the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)」。
耳に楽しいこの曲を、路面店のLegatoでは新緑の今時期よくかけました。
並木通り、まさに「明るい表通り」を闊歩するお洒落な人たちを眺めながら、この歌を聴いて気分をあげていましたが、歌い手によって歌の意味合いが変わるようなこの歌は、聞けば聞くほど「じっくり耳を傾ける曲」になっていった気がします。
特にルイ・アームストロングの歌うものは、時代背景的にも、黒人差別の様々な規制から解放されて、自由にどこでも歩ける・・そんな希望や期待を感じられて、明るいメロディ、元気なダミ声には悲哀の「ひ」の字もありませんが、かえってそれが、奥深いものを感じさせます。
そんな本気の苦労からしたら自分の悩みのちっぽけさが馬鹿々々しくなる、そういう元気のもらい方をすることも。
大学では英米文学を専攻していたので、黒人差別を描く小説や映画、あるいは黒人による小説などを、手に取りました。あれから20数年経った今でも、まだこんなことが起こるの?というような報道が度々あります。
「On the Sunny Side of the Street」を聴くとき悲哀を感じるのは、そういう情報のもとの勝手なこちらの解釈であって、歌っている本人は、「これで、もうよくなる」と思って歌っているかもしれない。だけど、そんなに簡単に良くなることではないこともわかって歌っているでしょう。
ルイ・アームストロングの1956年の録音で、57年のソニー・ロリンズとディジー・ガレスピーが「Sonny Side Up」の中で、エラとベイシ―が1963年に、他にもたくさんあるでしょうが、あまりメロディを変えることのない「声高らか」な演奏や歌声は、それでも言い続けていく、希望を持ち続ける、そんな意思を感じます。
また、これがダイアナ・クラルや、トニー・ベネットなどが歌うのを聴くと、全然違う意味合いの歌に聞こえるんですよね。
ちょっとセレブっぽく聞こえちゃうのは、ひがみ根性か!?
思えば昨年はプレイリストに自らのせることがなかった気がします。
コロナで初めての自粛期間で、とても聞く気分にはなれなかったと思います。
今年は、窓の外の鮮やかな緑を見ながら、明るい表通りをマスクを外して闊歩する・・そんな「期待」から聞きたくなったかな。